恐るべき子供たち
![]() | 恐るべき子供たち (岩波文庫) (1957/01) コクトー 商品詳細を見る |
【大雑把過ぎる紹介】
子供たちは夢の世界で生きている。
(子供というのは、差別的な意味合いがあるとしてあまり使われていないが、この小説では敢えて使いたい)
大人と子供の境、詩人の描いた小説は、まさに夢想を示していた。
※注意点
古い作品なので、今では使われない差別的用語も出てきます。(それもいい味をだす表現法だと私はおもうけど)
例えば、ハリポタのプリンスが謎になったのは、「混血児」っていうのを使ったらだめだから、っていうことらしいし。
人によっては不愉快に思うかもしれません。(個人的に、文学にそういう議論を持ち込むなって思いますけどね。まあ、人の価値観ですから否定はしませんが)
個人的に☆☆☆☆☆
しかし、人によっては☆ですらないだろう。
↓以下、感想・ネタばれあり。
今回はかなり電波です。
あまりにも乱雑なので、書き直す日が来るかもしれません。
私は魂という存在を信じてはいない。小説や表現としては用いる。
しかし、この小説、いや、文学、違うな。なんといえばいいのだろう、この言葉の集合体は、私の身体の中にすっと入り込んで、頭の中にある夢想の世界を捉えてきた。
久方ぶりに、読み応えのあるものだった。
萩尾さんのマンガにもなった恐るべき子どもたち (小学館文庫)
作品で、ある程度のあらすじを知っていたが、文章になって表現されると、あの萩尾さんが霞んでしまった。
私はかなりの萩尾さんのファンであったが、この小説をほんの数分前に読み終え、その世界観に萩尾さんの絵も表現も全て曖昧模糊となり果て、押し流されていった。いや、たしかに彼女以外に、表現することはできなかっただろうが、しかし、彼女ですら太刀打ちできない至極の刃だ。
このような作品が、まだあったのかと心が震える。
もちろん、外国の作品なので、この文章が成功するか否かは翻訳者にかかっていたことだろう。それでいうなら、私は鈴木さんの力を讃えよう。ただ、他の訳を読んだことはないのだから、彼が一番良いものだとは言わない。
訳す人の重要性はほとんど感じていなかった私であるが、ホビットの冒険 改版
この作品も同様に、私は彼らの息遣いを感じた。すぐそば、耳許で笑い声や息遣いが空気になって満たされているような恍惚状態である。
最初は普通の小説だった。台詞があり、文字がある小説だった。
それなのに、中盤に至るとどうだろうか。台詞よりもその言葉の連鎖が止まらない。
そう、止まらない、私はこの芸術、世界、音のない音楽にとらわれしまった。
この芸術は、なんと呼ぼうか。
子供たちは彼らの世界で生き続け、しかし、外からの波によってさらに泡立ち天の海へ押し流されて狂ってゆく。
彼らが乱されてゆくように、読者もその乱気流にのみこまれ、人が話しかけてこない限り、抜け出すことのできない沼の中に押しとどめられてしまう。
エリザベートはある面では自己を投影し、しかし、まるでそれと反発するように存在しうる。我々はポールにさせられた病人のように、彼女の中に取り込まれ、自分の思考というものを失ってしまう。
部分的に読むことができない。
最初からでなければ、私はこの作品を見ることはできない。
最後の幕。
そう、これは読者という観客への演技か。いや、心を盗み取るものなのだ。
彼らは文字の世界から、現実の世界の他者を盗み取って行った。
死者を冒涜することができないかのように。
それ以上変化することなく、変化させないために、我々をこの文章の中に閉じ込めたのだ。意思を保たなければ、この中から抜け出すことはできない。
愛しているのだ、そう、きっと彼らは彼らを愛していたのだ。
しかし、果たして愛していたのだろうか。
言葉の連なりによって、彼らは愛している。
愛とはそのようにまやかし、簡単に錯覚することが出来る。
催眠と一緒だ。あまりにも長く囚われて、彼らは愛という錯覚にとらわれてしまった。
はたして、エリザベートは愛していたのだろうか。
彼女は愛する者がいるのだろうか、永遠の処女のまま、彼女はきっと、愛されていたが、愛されてはいない。愛していたが、けれど、世界のように愛してはいない。
ダルジュロス!
彼はいつも世界を突き抜ける弾丸だ。
彼の影が見えない間、子供たちの夢想は傷つけあいながら高めあい、貝のように硬質で何者も入ることができないように。
そうだ、果たして、ジェラールは入ることができただろうか、否。彼は物語の栞に過ぎない。
では、アガートは?
彼女はまるで子供たちに勝利したようだった。しかし、彼女はただの女になり下がった。言葉によって、そう、形のない言葉が同じく形のない愛となったように、彼女はマネキンに過ぎない。部屋を飾り建てるマネキン。
彼女は結局、同じ時空にいるようにみえて、しかし、実存在は湯気のように触れられないものだ。
突き抜けることが出来たのは、ダルジュロスという存在だけだ。彼女は彼を投影した写真と同じか。
嗚呼、ダルジュロス。物語の始まりも終わりも、微々たる役である彼によって引き落とされる。
何と言う喜劇、喜劇的な悲劇、悲劇的喜劇的悲劇的喜劇!ハムレット王!
しかし、to be or not to beなどと堅苦しい決まり事のような選択は意味のなくなった砂時計のようなものだ。
ポール。
彼は子供だ。
恐るべき子供と同一視し、同質なるものだ。
囚われていたのはどちらか。
まるで最初から演劇を繰り広げているように、糸が、意図が世界を覆って首へと向かう。柔らかいマフラーが首に指を走らせ、逃がさぬように取り込まれた。
抜け出せない、いや、初めから出口など無い。
そこが始まりであり、終わりであり、終末と原始、終焉への原初の空間、はたまた存在しえない虚無や。
この作品を生み出したコクトーに、憎悪と嫉妬とそれらを呑み込む静止した時間空間の敬愛を
訳者鈴木氏には、解放の歓喜を注ぐ聖杯を


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